だいにっぽんじん と だいにほんじん の見分け方

「だいにっぽんじん」は松本人志監督の映画作品「大日本人」の読み方
「だいにほんじん」は「大日本人」内に登場する巨人の映画内での呼ばれ方


最近、何かと忙しくて、寝る間も惜しむ生活が続いていたのだが、その間々で借りてきたDVDを4,5本見た。例えば、「大日本人」とか黒沢清「叫び」とかその辺だ。
もともとホラーが観たくてレンタルショップに足を運んだのだが、黒沢清のホラーって恐怖を楽しむというよりかは、もっと話の構成的な部分でのギミックが面白いため、俗にいうホラーとは、言い難いというのもしかりである。
ちなみに構成的な部分でのギミックってどういうことかっていうと、顕著なのが、デビッド・リンチの「マルホランドドライブ」とか自分で物語を紡いであげないといけないやつのことだ。
「マルホランドドライブ」は実はもう、二回観た。二回とも夜中にテレビで見た。
一回目は偶然起きてた時にやっていたから見たのだが、正直なかなかに眠かった中、観たためにストーリーがよく分からなかったと観た直後は思っていた。ただのB級ミステリー映画だと思って見出して、だらだらと2時間半くらいだろうか、見てみて、結局最後の超展開で目を覚まされて、しっかり見ておけばよかったと後悔した。
2回目のときは、今度こそと思って、昼間のうちに充分に寝ておいて、さらに、コーヒー片手に観た。最後の20分くらいまでは、頭の中でストーリーを把握していたつもりだったが、そのせいで、今度は余計に頭が混乱させられた。一応、自分の中で、だいたいのストーリーにしてから、止むを得ずネタバレをいろいろ見たのだが、自分と同じ考えの人もいれば、違う人もいて、結局は監督以外誰も、正しいストーリーを知らないっていうことなのだろう。ネタバレの推測の仕方で置いてあるコップの種類とかまで目が行っている人もいて、奥が深いなぁ、とまぁそういうことだ。
「叫び」に関してもそうで、最後の方の超展開で、一応あれがフラグ回収だったのだろうか。しかし、私には結局分からずじまいだった。ただ、ホラーという名目上ホラー的なところもあるのだが、この人のホラー映画に共通していえることは、そのホラー的なシーンがどれも滑稽すぎて、ホラー映画としては楽しめるものではないということ。しかし、役者の目線の先には、常に、今から出るぞ、といった予感をさせるものがあって、実際に怖くないとは言っても、そのシーンに臨む緊張感は煽られるために、精神的には心底参るものであるとは言える。ただ、霊的なものは、あくまでストーリーを紡ぐ一つの記号に落ち着いているようで、あくまでストーリー先行のものなのだという印象は強くうけた。
名盤といわれるCDと同様一回聴いただけではよく分からないというのが、名画にもあてはまる条件なのかもしれない。


あとは、「大日本人」の話なのだが、この映画は、近代合理主義に対しての映画だと、真っ先に思ったのだが、ググってみると、あまりそういった、考察には出会えなかった。
多かった意見としては、やはり松本人志の映画とあってか、そのコント性に対する言及が主でメッセージ性についてはあまり語られないようである。私が出会えなかっただけなのかもしれないが。


一応、まずは、この映画のコント性について、自分が思ったことを言っておく。
これは松本人志の映画であったために、ダウンタウンの映画ではない。つまり浜田雅功が不在であるということ、ツッコミが不在であるということが笑いに関してはキーになっているように思った。どういうことかというと、松本がボケ続けているのだ。
では、ツッコミとは何なのだろうか。
一つは、笑うときの合図であると思う。ただ、あらかじめ言っておくとこれは「なんでやねん」的なツッコミについてである。
ボケがあったと分かって、心の中では、興味のような塊ができ、そこにツッコミが入るから、ここぞとばかりに笑えるのである。
二つ目は、聴衆の代弁である。
誰もが、ボケに対して非日常性をいだいて、「なんでやねん」とおもっているときに、「なんでやねん」のツッコミがテンポよく入ることで、同調により笑いが起こっているのである。ニコニコなどで、「誰がうまいこと(ry」とか思っているときに、その弾幕がでて笑ってしまったことはないだろうか、それである。

しかし、この映画に関して言えば、ツッコミがいないのである。松本がただ淡々と割とシュールなボケを連発しつづけるため、みていても「笑い」は起きづらい。そのために、なんとなくモヤモヤし続けた人にとっては、中途半端な印象を与え、それが、数多い酷評に繋がっているのだと思う。逆に、その隙間なく並べられたボケが心に堆積していくことによって、世界に引き込まれていくというのもあるかもしれないが、結果的にそれは少数だったのだろう。


では、一体どうしてこの映画が私に近代合理主義に対するメッセージのように思えたかということを説明しよう。
まず見ていない人のために、ザッとネタバレをすると、「大日本人」という映画の中でとられているのは、松本人志演じる6代目大日本人とインタビューをしながら、獣とよばれる、つまりは怪獣が出現したときは大日本人として戦うというもので、ジャンル的には一応特撮なのかな。
そして、あるとき正体不明のおそらく外国産の獣が現れ、その強さに逃げ出すも、再び立ち向かい、最終的には説明し難い、これも超展開によって幕を閉じる。


どこに合理主義を見たかといえば、インタビューのシーンなどは特に顕著だった。
インタビューのシーンでの、大佐藤(松本演じる大日本人の名前)はインタビュアーのやや小馬鹿にしたような質問の数々に、ときに投げやりに答えていくが、娘に対しての質問においては、やはり親の顔を見せたりする一面もあり、また、散髪後のシーンなどでは「髪きったんですかー」という普通の質問に対して「イメチェンですよ」(だっけか?)みたいに、まぁ普通の返答をしている。

小馬鹿にしたような質問をするインタビュアーとは何なのかというと、ずばり合理主義者であるだろう。そして、大佐藤とは、何かといえばあくまで伝統にしたがってその仕事をしている一般人なのである。大佐藤は一応代々の大日本人になるという伝統を引き継いでいて、それ自体は他に変われるものではない。ただ、大日本人が獣と戦うよりも、自衛隊が戦った方がもっと合理的にことを解決させることができるという現状がある


全然理にそぐわないことを頑固にしとうそうとする人は自分の周りにもいるし、ある場面では自分もそうなっているかもしれない。そのときにしたって、その相手を責め立てたって、相手は投げやりな回答しかよこさないだろう。自分だって、「ああ、はいはい」とか言うだろう。どういうことかといえば、すなわち、合理主義者のいいたいことはよく分かる。
そのうえ自分がとっている行動の意味はそこまでよくわからない。なぜなら、それは昔からの伝統、風習であるからであり、それが理にかなわないとは、気付きつつも、伝統を壊したくないため仕方なく遂行しているのである。

それが、大佐藤のいいかげんな回答の理由であり、また、大日本人への変身前の儀式がだんだんいいかげんになってきているという現状の説明にもなる。

だから、外国から来たと思われる獣に恐れをなして逃げ出すシーンなんかは、社会のグローバル化や技術の発達によって、伝統という非合理の敗退を明確に示してしまって、そのあとの伝統の崩壊、国民性の喪失などを危惧させる。


個人的には、合理主義と同時に考えるべきものとして、伝統、ともうひとつ、道徳というものがると思う。
例えば、私の友人なんかは、派遣労働者などは社会の構造上いないといけないものだし、そのためより社会も合理的に動くようになると言うのだが、例えば、実際に秋葉原での事件が起こって、その構造の無理が露呈されたのにもかかわらず、それでも、社会の構造や合理主義に対して言及してしまうのは、若干の人情的な部分を欠くと思う。
非合理的になってしまっても、私は自分がそうなってしまったり、また実際にそうなっている人に、直接ではなくとも触れてしまったりすることを考えると、今の社会よりももっと不便な社会に期待をよせてしまう。


D
ストリングスが入ったあたりから、だいぶシュール