PANTERAとパン☆テラの見分け方

地獄から来たcowboy兄弟によるメタルバンドがPANTERA
滋賀から来た漫画家兄弟の兄の方がかいたのがパン☆テラ


世間の老人たちは「世の中便利になった。」「自分が子どものころは、こんなのなかった。」と若者に会うたびに口をそろえて言っているが、その通りだと思う。
座椅子に腰かけキーボードを叩けば、およそのものは手に入る世の中だ、当然ひきこもりになるやつもいるだろう。そうかと言って、別に近代合理主義に対して文句を言おうなんて、その利をおおいに貪るこの身がどうして言うことができよう。自分みたいなやつが、率先してそういうことを叫んでいるという現実もあるのかもしれないが。さておき、
かつての偉人だか、最近の誰だか、覚えていないが、こんなセリフもあった。はず、
「“ものを考える”と“合理性を追求する”というのは別のこと。」

今、思うと高校生のころなどは、無駄な時間を無くそう無くそうといろいろもがいていた。一般にいう思春期の精神状態のまさにそれで、一日が退屈に無駄に終わってしまうことを何より嫌悪し、「錆び尽きるより燃え尽きたい」など、別の大陸の人が言っていたようなことを自らも掲げ、何かと衝動的に動こうとしていた。授業中は時間の無駄と決め込み、より有意義だと思った睡眠に時間をあて、放課後何をしていたかといえば、友人宅に籠城し、親からの電話を何度も流し、後ろでは、友人や自分が好きだという音楽をテキトーに流し、大富豪なぞやりながら、ただただ中身のない話を、自分という存在に気付いて欲しい一心で語り続けた。
「おまえスターリンってバンドを知ってるか。」
「ローランド・グラポウとウリカッシュの新しいバンドを知っているか。」
など、昨日知ったばかりの事項を並べたて、お互いがそれぞれそんなことばかり言うものだから(今思うと現代の掲示板による討論の無意味さに似た無意味さをもっているきもする)全く生産性をなさないが、しかしそれによって我々は「言ってやった」と優越感にひたりながら帰り道を歩くことができた。ローランド・グラポウの名前が思い出せなくて、わざわざ棚からCDをだしたのは自分に対して「最近メタルあんま聞いて無くない?」と一縷の危惧をもたらす結果を招いてしまった。てか、ググれと、またもや合理化を自らに課す思いが頭に今浮かんだのも、だいぶ現代のぬるま湯で悠々自適に暮らす自分を象徴することとなった。

また何もしないまま一日が終わってしまうと気づくのは家に帰ってから、冷え切ったご飯を一口食べたあたりであろうか。
風呂に入ってる間は、ひたすらこれからどうすればいいのか思い悩む。そんな時間が当時のわれわれには授業時間より必要に思われたのだ。
そして、「今日は○○をした」と一言自分を納得させるため、映画か小説を一本見る。そうして、その内容を一行くらいの文に脳内で要約してやる。そこで初めて、「今日はこれで何とかなったかな、明日はもっと有意義に暮らせるといいな。」などその後数年間続く、期待と絶望のらせん構造の一部をつくりだし、丁度期待に位置しているその場では満足する。しかし、不思議なもので、それを初めてから、授業中はずっと寝てたはずなのに、中学からの貯金とあいまって模試での成績が急上昇したりした。その要約という作業が他の生徒にとってはなじめない作業で、なかなかできなかったのであろうが、自分だけは日頃からやっていたということなのであろう。それと、それまでは、テストなんてやっても意味ないと思ってたから、テキトーに答えを埋めてからいつも自分表現しうる最大の芸術作品を試験用紙の端に書いていたのだが、国語や英語の文も一つのストーリーだと認識するようになり一応読もうというような心の変化があったのも大きく貢献しているだろう。しかし、半年もたたずしてその神話が崩壊したというのも語らずしも想像しうることで、さらに、テストに際して自分の主張を色濃く出し始めてしまったのも、そこに大きな拍車をかけた。
「思ってもいないこと書けるか!?」
とまさに、なんだ、あれだ。
季節によっては映画や小説を見終わったころにはそろそろ日が昇りはじめ、そんなときは海まで日の出を見ようと自転車を走らせたりした。嫌がらせという意味も含め、近所の友人にメールを送る。
「今から海に行かないか。」
実際に友人が来たのはただの一度きりだったが、一人で行くことに当時の自分としては意味があったのであろうということは、今の自分から見れば容易に想像がつく。
朝日を見るのがなんとなく好きだった(好きなのは今も変わらないのだが、今ならどこで見ればよいのか。今度探しに行ってみよう。)のは「朝の光が待てなくて眠れない夜もあった」なんて歌詞が何かの歌であったが、そんな理由もあるかもしれない。
そんな感じになんとか、充実させようと孤軍奮闘していた高校時代であるが、最近の自分はどうであろう。
時間があればあるだけいかにそれを潰すかとそればかりで、無駄に過ごすことへの苦を失ってしまっている。そんな最近だからか、自分は“ものを考え”ているのだと強く思うのだ。そうしてそう思うことによってはじめて、その時間が無駄ではないと知るのだ。
前の部分で掲示板での討論が無意味だといったのは、情報社会の進歩によってネット環境さえあれば“自分が欲しい情報”が簡単にあつめられるようになった反面、自分の欲しい情報だけ集まってしまうようになってしまったため、ネット上ではお互いが自分にとって有利なことだけをお互いに言い合って終わってしまっていて、お互いの意見を聞き入れる部分が欠落してしまっていると思ったためであり、また言いたいことだけ言って自分の聞いたことのない意見はガン無視。これでは討論は成り立たない。
どこかで耳にした新鮮な話に色付けしただけでは、まだ本質はもたない。いくつかの意見があって、そこから自分の意見を自分の理由でもって選ばなくてはならない。また、反論も個人的には、できれば譲歩が好ましい。
とかなんとか、そんなことを思いながら、まずネットから目を上げ本を読もうと思ったのである。そして次の瞬間には本を注文すべく早速ネットへと目を落としていた。
何かについて調べようと思ったわけではないが、とりあえず、フーコー柳田國男フッサールらへんを読んでみようと思っている。実際に討論の場で必要なのは、議題に対する知識以上に自分の根本的な考えだと、たった今思った。
そして、かの有名な通販のサイトへ行った。

先日、朝、目を覚ますと携帯に一件の留守電が残されていた。
「商品の配達に10時過ぎ頃うかあいますか大丈夫でしょうか。また、こちらは代引きでの購入ということなので、お金を用意しておいて下さい」
というようなことを言っていた。ネットで注文したものが届こうとしていたのだ。
早速、その時間帯で大丈夫だという旨を伝えて、商品の来るのを心待ちにする。
間もなく家のベルが鳴った。そのときぼくは二度寝による深い眠りについていたため、それを耳にしても、まだことの次第を把握しきれていなかったが、遠くで
「宅急便でーす。」
との声に、現実を伝えられ、飛び起き、紙幣片手に玄関にむかった。
ダンボールをあけると、そこには、ツインテールのかぐわしき乙女がにこやかに笑うDVDのジャケットと、黒い背景に一輪のバラをかざす大和撫子の姿が。

ネットの恐怖を知った。


3000字弱か・・・もっと内容を深めて且つこの3倍くらいは書いていきたいですねぇ

というのが、遅くなりましたが、新年一発目の更新にこめる私の願いでございます。

皆さん今年もよろしく


なんかいーよねー

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