遠近法とサモ・ハン・キンポーの見分け方

遠くに入れば小さく見えるのが遠近法
どこにいてもデブゴンなのがサモ・ハン・キンポー





最近ヒョギフの誘いで柿喰う客という劇団を観に行った。


普段、芝居と彼が呼ぶようなものは観ないのだが、映画演出の演劇に受ける影響が大きいというのは以前から知っていて、特に溝口健二などが顕著に影響されているというので、興味を抱いた次第だ。


前情報として彼から「会話が少ない芝居」だと聞いていた。


まず、劇場に入場して目にしたものは謎の立体であり、それが舞台となるのか否か、いざ始まるまで想像の域をでなかった。

そして、その立体の上で芝居は始まった。

奥に行くにしたがってせり上がる舞台は遠近感を誇張する。
それが、ある種ゴシック調に統一された演技と相まって独特の世界観を生んでいたのか・・・


さっき丁度ヴィム・ヴェンダースの『ことの次第』を観たのだが、その中で以下のように語られる。


映画は会話する二人の間の空間に成立する



とか、そんな感じで・・・。



彼の映画の特徴として背景が綺麗というのがあげられる。


例えば、会話する二人がカメラに寄って立ち話をしていても、背景は奥行きを振る舞う。


彼の映画のタイトルには、よく地名が入れられている。
そこがまさに舞台となり映画となるのだろう。


遠近法は単純に言えば、小さく描けば遠くに見えて、大きく描けば近くに見えるとかそんな感じだが、今、自分たちの目はそのようなことは当然のことと受け入れ、二次元に過ぎない写真に奥行きを見ている。平面なモニターにも。


普段の視界すら二次元であるのに、それを意識する瞬間は少ない。


みんなが無自覚なのだから、そこでつかれている嘘にも気づきにくい。
映画の演出、絵の技法、写真の撮り方はそこに成立している。


東京タワーを手の上に乗せているような写真を見たことがあるし、写真の上で、像が手のひらに収まることもしばしば・・・


ただ、それが監督の見せたかった映像なのだとしたら、そこは素直に受け入れ、その非現実性を楽しむべきだと思う。


ベンダーズの映画に関しては、彼はリアルなことを撮ろうとするので、誇張されきったことはあまりないけど・・・


また、遠近法の嘘として、平面に書いた立体がある。

こんなことは実際ありえない。
絶対に奥に向かって縮小していくわけだから。


そうだそうだ、ここに来てやっと書きたいことを思い出した!


絵も写真も画面も奥に行くに従って小さく縮小される。
映画は四角い。

「」