偶然 と たまたま の見分け方

テキトウにレベルあげて進化したら 偶然
イシで進化したら たまたま


最近、ネット上で知らない人と会話をしていたのですが、相手が
「オリジナルも模倣も結局は一緒でしょ。」
と言うので、
「時間を考えないで、今一瞬、だけを考えたら一緒だけど、時間軸におけば座標的に違いがあるんじゃない?」
と言い返しました。

そのあとは、
「そういう曖昧なことは無視してる。」
と話を終わらせられてしまったのですが、このあと、時間がない世界というのを考えました。

結果、思いついたのが、人生を情報処理の残像をとらえるということでした。


自分を目として世界を光とします。そして、ある一瞬だけ私が光の中に投げ込まれたとします。そこで、世界は終了です。

そのときに目に入った光が知覚されていく情報処理を人生と考えました。

目の前にある光は一つではなく、たくさんあるものとして、それぞれ違う大きさをもっています。その長さに着目して、さまざまな光をまっすぐ目の前に並べていきます。
すると長さの差が出てくるので、それを時間的なものと考えます。
そのようにすれば、世界を一瞬のものと考えられると思ったのですが、それだと、変化について説明できない気がします。

そこで、目が長い光に対して可能性を読み取ると考えました。光の長さのうちに目が順序よく処理できる可能性を見出していくのです。先に見きれる短い光ほど多くの可能性をもちますが、あとは、それまでの可能性に従って、より秩序だった可能性を選び取るようにします。その可能性は私たちが知覚している世界の物理法則などとして現出していきます。

こう考えていくと一瞬の世界で人生が作られているので、人生が因果律の元に流れていくとも考えられますが、常に、多数の可能性をはらんでいるようにも思います。

この人生の最後はどこにあるのでしょうか。

ここで2つの場合が考えられます。
一つは、可能性の秩序に従って、私がいなくなるとき。
二つ目は、光の処理を終えた時です。

秩序として私がいなくなった世界を見ていても、まだ長い光が残っています。そこでそれを処理する過程を心霊状態と考えました。物理的肉体を失った私でも、そのように世界を知覚しつづけます。その心霊がどのように知覚している世界に対応するかは、可能性の問題となるでしょう。


どの道、人生が処理の歴史であるならば、面白いように考えたほうが、余生を楽しく生きられるんでしょうかね・・・

ゆらゆら帝国の時間って曲はあがってないのかなw