2009と2010の見分け方

11進数から10進数に直したとき14650なのが2009
3進数から10進数に直したとき171なのが2010




最近、不思議に思うのだが・・・

「夕食はハヤシライスかオムライスよ。」
と言われたときに実際はオムハヤシだったりすることがある。

しかし、
「夕食はご飯と納豆よ。」
と言われたときには、その二つに加えて味噌汁が付いていたりする。

どちらにせよ珍しいことではない。そして、この二つの差は“and”と“or”の違いに過ぎないのかもしれない。

上の例から見ると“or”のときは、そのとき提示された分岐点とは違うルートを辿ったことになり、“and”のときは提示されたルート上ではあるが入り口より出口が広がっていたことになる。

“or”はの意味は一見すると複数個の並行するルートの分岐を意味するように見えるが、実際は“or”の示すただ一つの曖昧なルートが示されていたのではないかと最近思うようになった。

きっかけは、ドゥルーズという人がゴダールの映画『私が彼女について知っている2,3の事柄』について言及している文章を読んだ時からだった。
彼はこのタイトルの意味を考えるとき、2や3の数字についてではなくdeux ou trois(英語だとtwo or three)の“ou”(or)に注目し、この曖昧な状態を示す語こそタイトルの本質を表している的なことを書いていたのだ。

また、“and”についても疑問はある。
以前、ある映画監督の公演会に行ったときに映画には「映像」「音」「演技」の三つ要素があると言っていた。

「映像」は目で感じるもの。視覚。
「音」は耳で感じるもの。聴覚。

「演技」は?

例えば、一秒間に24コマの絵によって構成されるフィルム映画について考える。
その1フレームだけ再生されたとき画面には、選びぬかれた背景の前に一人の男が立っている写真がある。
24分の一秒の音楽が再生される。

このとき、男の役者さんの演技は「音」の中にしかない。

さらに1フレーム再生しよう。すると男や木の葉が座標的変化を表す。

ここで加わったものは視覚の変化にすぎない。
だとすれば、映画には「音」と「映像」しか存在していないのだろうか。

「音」と「映像」はいかにして「音」と「映像」と「演技」になりうるのだろう。
もしこれが成り立つのであれば、「音」“and”「映像」の“and”が「演技」を産み出したのだろうか。
もしくは、「音」と「映像」と「音“and”映像」なのだろうか。

算数、数学で使う「+」の記号がある。これはラテン語の“et”を略したものらしい。
ラテン語については知らないのだが、フランス語で“et”は“and”の意味で訳される。

ちょっと“and”に関する文献を探してみようかな・・・